西郷隆盛の愛犬はツンじゃない?上野銅像のモデルと全13匹の真相
東京・上野恩賜公園のシンボルとして、120年以上にわたり親しまれている西郷隆盛の銅像。浴衣姿の西郷の傍らで凛々しく立つ犬の姿を見て、多くの日本人は「これがあの有名なツンか」と思い込んできました。しかし、近代彫刻史や幕末明治の史料を丹念に紐解くと、そこには教科書では語られない驚くべき事実が隠されています。
実は、上野の銅像に刻まれた犬は「ツン」そのものではありませんでした。さらに西郷自身、生涯で確認されているだけでも13匹以上の犬を溺愛し、当時の常識を遥かに超える待遇で育てていた筋金入りの愛犬家でした。明治維新という激動の時代を駆け抜けた英雄が、なぜそこまで犬に執着し、家族や周囲を巻き込んでいったのか。残された手記や証言、現代の歴史社会学の知見を交えながら、愛犬たちの知られざる真相に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:上野公園の銅像の犬は名犬「ツン」ではなく、複数の薩摩犬(オス)を掛け合わせたハイブリッド彫刻である
- 要点2:ツンは本来「メス」であり、西郷隆盛が実際に暮らした愛犬は記録に残るだけで全13匹にのぼる
- 要点3:重度の肥満治療(ウサギ狩り)と明治政府の権力闘争による精神疲弊が、西郷を無類の愛犬家へと駆り立てた
上野の西郷隆盛像が連れる犬の正体|「ツン」と銅像モデルに隠されたズレ
日本人の脳裏に焼き付いている「西郷隆盛と愛犬ツン」のパブリックイメージ。しかし、彫刻史の一次史料や宮内庁関係の記録を検証すると、上野の山に立つ犬は「ツンそのものの姿」ではないことがはっきりと分かります。
上野の西郷隆盛像を手掛けたのは、本体が彫刻界の巨匠・高村光雲、そして連れている犬は動物彫刻の第一人者であった後藤貞行です。像の制作が始まった明治20年代半ば、西郷がもっとも可愛がっていた名犬「ツン」はすでにこの世を去っていました。後藤貞行はツンの正確な姿を再現しようと鹿児島へ調査員を派遣し、生前の姿を知る関係者からの聞き取り取材を重ねました。しかし、ツンの写真や精密なスケッチは残されていませんでした。
さらに決定的な齟齬がありました。実在したツンは「メス(牝犬)」だったのに対し、上野の銅像の足元を注意深く観察すると、堂々たる「オス(牡犬)」の特徴がはっきりと彫刻されています。明治の国家事業として建立される威厳ある銅像において、小柄な牝犬よりも雄々しい牡犬の骨格が求められたという時代背景が影を落としています。
そこで後藤貞行がモデルとして抜擢したのが、当時の海軍軍人・仁礼景範子爵が飼育していた純血の薩摩犬(オス)や、西郷が生前に可愛がっていた別の愛犬「カヤ」系統のオス犬でした。後藤は複数の優秀な薩摩犬を自室に住まわせ、筋肉の躍動や毛並み、耳の立ち方を徹底的に観察。ツンの特徴である「ピンと立った三角耳」と「鋭い虎毛の面影」を宿しつつ、肉体は筋骨たくましい牡犬の薩摩犬を融合させたのです。つまり、上野の銅像の犬は、特定の1匹を写し取ったものではなく、明治の彫刻技術が生み出した「理想の薩摩犬」というべき芸術的フィクションでした。

西郷隆盛の歴代愛犬名前一覧と何匹いたのか?全13頭のリアルな実態
西郷隆盛が飼育していた犬の頭数は、一般的なペットの枠を完全に超えていました。明治6年(1873年)の政変に敗れて下野し、故郷の鹿児島へ戻った晩年、西郷の屋敷には常時13匹前後の猟犬が駆け回っていたと記録されています。資料によっては生涯で飼った犬は20頭を優に超えると推計されています。
鹿児島県立図書館に所蔵される『西郷南洲逸話』や親族の手記から確認できる、西郷の主要な愛犬たちの名前とプロフィールを整理したデータが以下となります。
| 愛犬の名前 | 犬種・性別・特徴 | エピソード・関係性 | 歴史的評価・位置づけ |
|---|---|---|---|
| ツン | 薩摩犬/メス/虎毛・立ち耳 | 薩摩川内の前田新右衛門から懇願して譲受。俊足でウサギ狩りの名手 | 西郷の代名詞。国民的知名度を誇る最愛の猟犬 |
| カヤ | 薩摩犬/オス/頑健な体躯 | ツンと並ぶ主力猟犬。上野銅像の肉体造形のベースになったとされる | 実質的に上野の犬の原型となった影の主役 |
| シロ / クロ | 和犬雑種/毛色に由来 | 西郷の身辺警護と夜間の番犬を兼ねて屋敷内で放し飼い | 家庭内での日常的な癒やしを担った身近な存在 |
| トラ / ブチ | 薩摩系猟犬/斑模様 | 山野でのウサギ・猪追いに優れた嗅覚を発揮した実戦部隊 | 狩猟パフォーマンスを極限まで高めた実用犬 |
| テツ / サクラ | 薩摩犬/忠誠心の強い個体 | 西郷の枕元で寝ることを許されていた特別な寵愛犬 | 西郷の精神的孤独を埋めた情緒的伴侶犬 |
これら以外にも、文献には「ユキ」「ハル」「シシ」「タマ」「ゴン」「スズ」といった合計13頭以上の名が散見されます。驚くべきは、西郷がこれらの犬たちを単なる「狩猟の道具」として扱っていなかった点です。当時の日本において、犬は外で残飯を与えられて飼われるのが当たり前でした。しかし西郷は、犬たちに白米や魚、時には好物のウナギや牛肉を自らの膳から分け与え、ノミ取りを自ら行い、一緒に川で水浴びをしていました。東京在住時にも愛犬を連れて外出し、高級料亭に犬同伴で上がり込んでは特上の料理を食べさせたという逸話が当時の新聞や回顧録に数多く残っています。
薩摩犬の特徴とウサギ狩りの過酷な現場|なぜ西郷は犬に執着したのか
西郷がこれほどまでに犬を求め、山野を駆け回った背景には、過酷な政治的ストレスだけでなく切実な健康問題が存在していました。
絶滅寸前の名犬「薩摩犬」が持っていた驚異の身体能力
西郷が愛した薩摩犬(さつまけん)は、現在の日本犬保存会が定める天然記念物指定(柴犬、秋田犬など)には入っていないものの、薩摩藩において古くから猪や鹿、ウサギ狩りに用いられてきた地犬です。ピンと直立した小さな三角耳、ピンと巻いた「差し尾」、そして獲物を逃さない鋭い眼光と強靭な四肢が外見上の大きな特徴でした。主人に対して極めて従順である一方、見知らぬ人間や獲物に対しては猛烈な闘争心を見せる、きわめて純粋な古代犬の気質を残していました。
ドイツ人医師ホフマンの宣告と「ウサギ狩り」という名の減量治療
明治維新後、西郷隆盛の体重は一時110キログラム超に達していました。身長約178センチの大柄な骨格とはいえ、運動不足と過食、極度のストレスにより心臓肥大と重度の糖尿病リスクを抱えていたのです。危機感を抱いた明治政府は、天皇の侍医を務めていたドイツ人医師テオドール・ホフマンに西郷の診察を命じました。
ホフマンの下した診断は「このままでは脳卒中で急死する」という宣告でした。処方されたのは、投薬治療に加え、厳しい食事制限と「徹底的な有酸素運動」でした。そこで西郷が選んだ運動療法こそが、薩摩犬の群れを引き連れて山野を縦横無尽に走り回るウサギ狩りだったのです。多い日には数十キロの山道を犬とともに走破し、泥だらけになって獲物を追う生活を続けました。犬を飼った理由は、単なる動物好きというロマンチックな理由だけではなく、自らの肉体を延命させるための「命懸けのリハビリパートナー」だったという現実があります。

妻・西郷糸子が銅像除幕式で漏らした「本音」|浴衣姿と犬への痛烈な違和感
明治31年(1898年)12月18日、上野恩賜公園で挙行された西郷隆盛像の除幕式。政府要人や皇族、旧薩摩藩士が集結し、拍手喝采が沸き起こる晴れの舞台で、ただ一人、複雑な表情を浮かべた人物がいました。西郷の正妻である西郷糸子です。
除幕の瞬間、布が取り払われて現れた巨大な銅像を見上げた糸子は、隣にいた義弟の西郷従道に対して薩摩弁でこう呟きました。
「宿(うちの主)はこげんなお人じゃなかった」
この発言は当時、新聞各紙でも報じられ、現代に至るまで様々な憶測を呼んできました。「顔が似ていなかったのか」「肖像写真が一枚も残っていない西郷の本当の顔と違っていたのか」という議論が繰り返されていますが、近年の風俗史や家族史の研究からは、より生々しい妻の胸中が浮かび上がっています。
糸子がショックを受けたのは、顔の造形以上にその「異様な身なり」でした。国家に功績を残した偉人たちが皆、大礼服や軍服を身にまとい、威風堂々たる姿で顕彰されている時代に、夫の西郷隆盛だけが胸元をはだけた浴衣(散歩着)姿で、草履を履き、猟犬を連れた姿で永遠に晒されることになったのです。「主人は人前であのようなだらしない格好をして出歩くような無作法な人では決してなかった」という、武士の妻としての切ない羞恥心と悲哀が、あの言葉には凝縮されていました。
政府側からすれば、西南戦争で一度は「朝敵」となった西郷を復権させるにあたり、軍神としての姿ではなく、野山を愛する庶民的な「親しみやすい無害な西郷どん」として演出する必要がありました。その政治的意図の犠牲となったのが、西郷の威厳であり、巻き添えを食う形で象徴化されたのが「犬を連れた狩猟姿」だったのです。
【実態検証】鹿児島・上野の現場と現代ファンが目撃する「愛犬伝説」の痕跡
2026年を迎えた現在も、西郷隆盛と犬の足跡を訪ねる歴史ファンや愛犬家の探訪は途絶えていません。現地を取材すると、教科書やガイドブックには載らないリアルな情景が見えてきます。
ツンの故郷である鹿児島県薩摩川内市東郷町には、誇らしげに胸を張る「ツンの銅像」が建立されています。上野の像とは異なり、こちらは小ぶりで引き締まった体躯、ピンと立った耳と反り上がった尾が見事に再現されており、訪れた観光客からは「上野の犬と全然フォルムが違う」「本物のツンはこんなにも鋭利で野性味あふれる日本犬だったのか」と驚きの声が漏れます。
一方、鹿児島市内の南洲墓地や旧居跡周辺のコミュニティでは、西郷の愛犬家エピソードが今なお温かい親しみをもって語り継がれています。「西郷さんは人間には厳しくとも、犬のノミを一匹一匹潰しながら語りかけていた」「犬が粗相をしても絶対に叩かなかった」という口伝は、地元の人々にとって西郷が単なる軍事指導者ではなく、情愛に満ちた人間であったことの証明となっているのです。

【プロの結論】孤独な巨魁を救ったアニマルセラピーと「心理的バウンダリー」
歴史社会学および臨床心理学の観点から西郷隆盛と犬の関係を解剖すると、現代を生きる私たちが直面する人間関係のストレスと驚くほどの共通項が見出せます。
明治維新という未曾有の国家変革において、西郷隆盛はもっとも過酷な役回りを引き受け続けました。江戸城無血開城を成し遂げ、旧幕府軍と新政府軍の血みどろの衝突を最小限に抑えた英雄でありながら、維新後はかつての盟友・大久保利通や木戸孝允らと路線の違いから対立。権力闘争、汚職にまみれる新政府官僚への絶望、士族たちの突き上げなど、全方位からの重圧に晒されていました。
心理学において、過度な人間不信や裏切りに直面した人物が、他者との間に「心理的バウンダリー(境界線)」を再構築する際、もっとも有効なシェルターとなるのが動物との無条件の絆です。犬は肩書や権力、政治的駆け引きで人間を判断しません。泥にまみれても、国家の敵と呼ばれても、自分を抱きしめてくれる主人を命がけで全肯定します。
西郷が求めた13匹の犬たちは、単なる狩猟の道具でも、肥満解消の器具でもありませんでした。策謀渦巻く人間社会に疲れ果てた男が、唯一「無条件の愛と信頼」を交わすことができた、最後の防波堤だったのです。この視点を持つとき、上野公園で犬を引く西郷の姿は、単なるのどかな散歩風景ではなく、巨大な孤独を抱えた一人の人間が求めた「究極の癒やし」の祈りとして立ち現れてきます。
【西郷隆盛の犬の名前】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:西郷隆盛の愛犬ツンの犬種と性別は正確には何ですか?
A1:ツンの犬種は鹿児島県固有の地犬である「薩摩犬(さつまけん)」で、性別は「メス(牝犬)」です。毛色は虎毛で、耳がピンと立っているのが特徴でした。薩摩川内市の前田新右衛門という人物から懇願して譲り受けた記録が残っています。
Q2:なぜ上野の西郷隆盛像の犬は「ツン」と違う姿をしているのですか?
A2:銅像制作時、ツンはすでに死亡しており写真も存在しなかったためです。彫刻家の後藤貞行は、ツンの風貌の特徴を取り入れつつ、モデルには海軍大将・仁礼景範の愛犬など実在した複数の「オスの薩摩犬」を採用しました。そのため、実在した牝犬のツンとは骨格も性別も異なるハイブリッドな彫刻になっています。
Q3:西郷隆盛はなぜ犬にあれほど贅沢な食事を与えていたのですか?
A3:西郷は犬を単なる番犬や道具ではなく、家族同然のパートナーとして遇していたためです。ウサギ狩りという過酷な任務を共にする戦友でもあり、自身のうなぎ丼や白米、肉類を分け与えるなど、当時の日本社会では異例の厚遇ぶりでした。これは権力闘争による孤独を癒やすアニマルセラピーの意味合いも強かったと考えられています。
まとめ:銅像の犬が語り継ぐ西郷隆盛の素顔と愛犬たちへの愛着
「西郷隆盛の犬=ツン」という常識の裏には、後藤貞行の彫刻への執念、オス犬をモデルにせざるを得なかった制作背景、そして妻・糸子のやるせない溜息が幾重にも重なっていました。そして何より、常時十数頭の犬たちを従え、自らの膳からウナギを分け与えていた西郷の姿は、激動の時代に精神をすり減らした人間が辿り着いた、最も純粋な愛の形を示しています。
次に上野公園を訪れ、あるいは鹿児島の史跡を歩くとき、西郷の足元にいる犬たちをじっくりと見つめてみてください。そこには、歴史の教科書に刻まれた大政治家の威風ではなく、愛犬のぬくもりに救われながら泥だらけで山を駆けた、等身大の「西郷どん」の優しい息遣いが今も確かに息づいています。 (出典: 西郷 隆盛 の 犬 の 名前(Yahoo!ニュース))